プロフィール

木村 理沙(きむら りさ)

編集者・ライター 兼 広報 兼 華道家。1977年生まれ。筑波大学 第一学群社会学類 卒業。
いけばな小原流 二級家元脇教授、教授者資格保有。

私は2000年に、マーケティングやクリエイティブ業界の専門誌を発行する株式会社宣伝会議に新卒で入社しました。編集志望で採用試験を受験したのですが、1年目は管理部門に配属。そこでは、社内報の担当などをしながら、社長の近くで会社経営を間近に見る貴重な機会を得ました。
2年目からは、月刊「販促会議」編集部に異動となり、結婚退職までの5年間、編集やライターの業務に従事しました。当時、多くの企業の販促活動を取材・執筆し、「販促会議」の販促を考えることに没頭。今思えば単に運がよかっただけなのですが、ちょうど会社や編集部が若返りを図るタイミングだったことで、2004年12月、27歳にして編集長に就任しました。
学生時代は都市社会学を専攻し、人や街の変化を洞察することが好きでした。そんな自分には、イベントや購買キャンペーン、売り場のディスプレイなどを扱う雑誌「販促会議」は合っていました。不景気でしたが、それゆえに売るための情報が求められ、部数は3倍、広告収入も2倍に伸びました。大手企業のみならず、商店街や個人商店など、規模やジャンルを問わず売れる仕掛けに注目し、取材・執筆・編集をする日々は楽しくて充実したものでしたが、社内結婚を機に転職することになりました。
当時、社員100人に満たない会社で周囲に気を遣わせるのは本意ではありませんし、そういうものだという暗黙のルールのような空気もありました。編集者は天職だと思いましたが、同業他社への転職は社長や会社に対して不義理に思い、考えないようにしました。

2006年3月末で宣伝会議を退職し、2006年4月に日本郵政公社(現・日本郵政グループ)へ入社。本社広報部で企業広告や民営化のための広報を担当しました。既に民営化を1年半後に控え、民間企業へと変わるための準備が進められており、また、メディア経験が生かせる仕事でした。
とはいえ、結婚を機に苗字も社名も変わった自分は、宣伝会議の木原から日本郵政公社の木村へ。文字面ではまったくの別人格です。女性が働くことって、こんなにも不便なんだなと実感したのもこの頃です。
日本郵政公社→郵便局株式会社→日本郵便株式会社と、会社がダイナミックに変化を遂げる一方で、私自身は広報を軸にキャリアを築きました。企業広告、CI・ブランディング、プレス対応、会社Webサイト、社内報、CSR…とひととおりの広報業務を、実務を担う係長として経験しました。また、社員数40万人近い巨大企業ということもあり、扱うジャンルも多彩。郵便・物流、保険・銀行・投信などの金融、物販や店舗運営のほか、JPタワーやKITTEをはじめとする不動産開発など主要事業の経験や、課長という管理者経験を積むことができました。特に日本郵政グループは組合組織が強固ということもあり、部下の勤務管理などは非常に大切な業務でした。民営・分社化、会社統合、かんぽ問題、コロナ対応…広報はネタの宝庫で、プレスリリースはほぼ毎日発信し、着実に鍛えられました。

そして2022年10月、退職。現在は、フリーランスの編集・ライターと、IT企業の広報のパートへの参画を中心に活動しています。
日本郵便を辞める際に、大抵のことはやりきったと思えたのですが、一つだけ、心残りなことがありました。それは、もっと女性が働きやすい職場にできたら・・・ということです。
今では女性が働くことは当たり前になりつつありますが、私が就職した頃は、女性は結婚を機に家庭を入るという選択肢もまだまだありました。しかも入社自体が就職氷河期で、大卒の優秀な人材であっても、就職は難しく、非正規で働く人もたくさんいました。特に女性には厳しく、入社したら入社したで少人数ということもあって、馬車馬のごとく働く環境(笑)。家庭か仕事かを選択することが当たり前の時代でした。
私はどうして、結婚を機に会社を辞めなければならなかったのか!
結局、結婚はできましたが、子どもとは縁がないまま今に至ります。20代の頃、不妊治療にも通ったのですが、夫婦でタイミングをピンポイントに計って休むなど、到底無理な話でした。
せめて後輩たちにはそんな思いをしてほしくないと思い、微力ながら、Webサイトで育児と仕事を両立するママを応援する企画の編集・取材・執筆もしています。
【連載】 
  株式会社マスメディアンさま「しゅふくり・ママクリ」内 「輝く!ママクリ」
  株式会社マスメディアンさま「しゅふくり・ママクリ」内 「変わる企業 変わる働き方」

【得意分野】
  ビジネス全般、広報、マーケティング、管理者・マネジメント
  ※企画立案、取材先選定、取材依頼、取材・執筆などの編集・ライティング業務が可能です

【強み】 
  20年超の企業経験があり、ビジネスマナーやビジネス基礎についての心配不要です。
  特に企業取材は得意で、ビジネスパーソンを対象にしたメディアの即戦力になれます。
  現在、現役の広報パーソンとしても活動しており、ビジネスの現場感覚を常に磨き実践しています。

シキノハナの理念

一人ひとりが輝き、調和する社会へ。

いけばなに使用する生花は、同じ種類の植物であっても、二つとして同じ姿はありません。いけばなは、一つひとつが生き生きとした姿を現しながら、全体としての調和と美を大切にしています。

シキノハナでは、人間社会も同様に、一人ひとりが日々生き生きと暮らしながらも、家族や職場、地域社会などのコミュニティ、人と人とのつながりや調和も大切なことと考えます。生命の個性と尊厳、そして調和が守られる社会は美しい。そのような社会づくりを後押ししていきます。

シキノハナの名の由来について

シキノハナLabは、シキノハナが運営するWebサイトです。
シキノハナ…漢字で書くと「四季の花」? 「(儀)式の華」? それとも「子規の花」だったり?!
言葉は、その受け手に委ねられるもの。
だから、答えは一つではありませんし、あなたがそう思うならばそれが正解です。

もう数年前のことになります。
大好きだった父が突然他界しました。
葬儀の前に母がふと「お父さん、アジサイが好きだったから飾ってあげよう」といって、庭で父が大切に育てていたアジサイの中から数本を選び、素朴な花瓶にさして祭壇の前に供えました。
祭壇は、見事な菊で飾られていましたが、父と母の長年にわたる生活の営みと愛情が、そのアジサイには込められていました。

あなたの好きな花は何ですか?
あなたの大切な人の好きな花は何ですか?

一人ひとりのシキノハナに寄り添いたい。そのような思いで名づけました。

いけばな教室開講への思い

20代のころ、自分自身が仕事に追われるなかで、ふと、リフレッシュできる時間が欲しいと思い習い始めたのが、「いけばな」でした。お稽古はいつも、疲弊した心を癒し、明日への活力の源となりました。

どんな習い事も、大人になって続けるのは容易ではありません。私自身、途中で、転職したり昇進したり、仕事で大きなプロジェクトに参画したりして、通うための時間が作れなくなり、長期にわたってお休みせざるを得ない時期が、一度ならずありました。それでも、復帰のたびに寛容に受け入れられ、続けることができました。

だからこそ、いつか、私も習う人の生活に寄り添ういけばな教室を開きたいと考えるようになりました。今の私には不足することだらけで、すぐには開講できそうもありません。けれど、忙しい人の暮らしに寄り添う教室運営を通じて、心の潤いと明日への活力を与えたい。そして、日本独自の素晴らしい文化であるいけばなが、もっと気軽に、生活の中に取り入れられるようになることを心から願い、現在、準備を進めています。もし、ご共感いただける方がいましたら、お気軽にご連絡ください。